会館へ

久々に古巣(退院後、一年ぐらい行っていた。)の杉並区障害者福祉会館の「若者(と云っても御想像の通り四十歳未満だが)グループ」へ。
通勤電車に揉まれて朝から荻窪へ。すっきりとした晴れ。中央線から富士山が見える。
お昼はデニーズへ。その後投稿。


恐怖映画館


九時の開店時間にあわせ、朝もはよから我孫子→阿佐谷(あさがや)の杉並区役所へ。用事を済ませ、九階の食堂で朝飯を喰ってから、前にあるビル二階の(隠れ家的?)介護用品ショップにて、頼まれていた「駅員さんが使うような段差のあるところに橋を架ける折り畳み式の携帯用スロープみたいなの」を探しに行く。けど買うと五万円くらい、高い。(車椅子の人、持って歩けとは云わないけど、「段差があるから駄目」なんて云ってちゃ駄目よ。)
でもって隣駅の荻窪に移動、そこでまた用事済ませてから新宿へ。
ヴィスコンティの「山猫」が「デジタルリマスター版」とか云うので観ようと思ったが、ここ「テアトルタイムズスクエア」は、普通の映画館と違って、45度ぐらいの斜面に客席をつけてある野球場みたいな映画館だから、その「恐怖の急階段(手すり無し)」を登り降りしなくて済む、出口と同じ段の席、が異常に混む。それでも「転落するよりはまし」とあちこちにぶつかりながら、一つ下の段へ。「障害者は階段にでも座って観ろ」ってのか?
昼食後、コニカミノルタプラザへ。プレミオ(新人賞っぽいの)の二作品
Suthep Kritsanavarin(ステープ・クリッサナワリン)写真展 「タイ:象と象使い」生存をかけた暮らし
は、手慣れた告発系。フォトジャーナリストとして色々やってる人らしく、載ったAERAなんかが置いてある。なんでこんな人が新人賞みたいなのにめり込んでくんの?これが第三国特有のバイタリティなのか。でもまあ巧いことは巧い。
的場ゆう子写真展「KIHADA」whangdoodleland
題名通り、様々な「木肌」(日本語をとりあえずローマ字にするのは好きでは無いが)を平面的に、感触を丁寧に、写し取るように、撮影した写真。じーっと見つめていると、衛星写真のようでもあり、未知の月面写真のようでもあり、天体写真のようでもある。(と思ったら自身の作品紹介にそんな事が書いてあった)想像力を喚起させてくれる写真。
経歴の所に「写真表現大学」と書いてあったから、何かと思ったら専門学校の授業なのね。学歴コンプレックス?
小畑雄嗣写真展「冬と夏の光景」-クロアチア-
良い。巧い。上記「象と象使い」のようなイヤミな感じが無くて良い。売っているという小冊子、買おうと思っちゃったもん。
巧いなあと思ったら色々な雑誌(機内誌やらクレジットカードの会員報みたいな、経済的逼迫度が低いであろう、企業イメージ向上系。)で仕事をしている(そういう雑誌が会場に置いてあった)カメラマンであった。(ついでに見たら日芸だった)


介助者(「お友達」とも云う)は駄目なんだって


東京都現代美術館「ピカソ展−躰[からだ]とエロス−」を観に行った。
「ピカソ」である。泣く子も黙る「ピカソ」である。御大「ピカちゃん」である(かどうかは知らない)。
おなじみの「キュービズム」とか云う対象を多方面から観るように分解した絵。それが「この森の中に動物は何匹いるでしょう?」の絵みたいになっていて、とある部分が他の部分を兼ねていて奇妙に入り組んでいる(でもってあんな訳の分からん絵になるんだと思う。以上僕の解釈です。)ので、読み解こうとすると一つの絵の前に何十分も居なければならない。
「絵なんて所詮は場の空気よ」論の僕は、取り敢えず線の妙味とか印象とか、そういうのでボーっと見て回る事に決定。
それなりに楽しめたけど、こういう絵の見方にはあわないわな、この人。1,300円分観ようと、食い入るように(解説文を?)見つめている人達を尻目に、スタコラと退散。
チケット売り場周辺、至る所に「ピカソ展の障害者付き添いの方は有料となります。」の張り紙。こういうのもあるのね。一種・二種(障害者の等級?とは別に付けられた「付き添いがないとこの人行動できない」「できる」のお墨付き)とは関係なく、公立の施設は入場料が付き添いもタダになるのが普通だけど(なぜか二人まで。二人で支えなければ行動できない障害者が居るという事なのだろうか?)。


色々な災難

新潟の地震で孤立した山古志村(やまこしむら)のお婆さんは、村から避難するヘリコプターから、「見納めだね」と一人ごちたそうな。「命があればいい」のは確かだけれども、それは「命しかない」と同義でもある。
昼間、TBSの「噂の東京マガジン」なる番組を見ていたら、新宿「百人町(ひゃくにんちょう)」の一角に、「グループホーム(知的障害者が共同生活する施設)」を区が作るという計画を聞いてそこの住民が組織だって反対しているという事を放送していた。
テレビや反対住民は一所懸命「グループホームが嫌なんじゃなくて、無計画な区の開発計画に反対してるんだ。」という事を強調していたけど、要は「キ○ガイが集団で越して来るなんてとんでもない」という事らしい。大体反対住民の「わざわざ車通りが多いここの土地を使わなくても。」なんて、余計なお世話だよ。


福祉イベント大盛況!(華氏911)


お台場の国際展示場にて行われた、「第31回国際福祉機器展」というやつに行ってきた。会場は閑散としたものかと思いきや、押すな押すなの大盛況。障害者や「仕方なく来た」という風情の福祉施設の関係者だけでなく、他の一般の人や、制服姿の女子高生まで居たのにはびっくり。いつの間に「福祉」はこんなにトレンディになったんだ?
諏訪田製作所なる所のぐにゃぐにゃと曲がった鉄パイプが杖になったような、「ALSTICK」なる不思議な逸品を発見。気に入って色々と文句を付ける(じゃなかった。「要望する」だった。)。
映画「華氏911」を観に行く。ブッシュ(米)大統領に批判的な内容ばかり切り貼りして作った映画は、悪人(ブッシュ大統領とその周辺)が決まっていてそれなりに「爽快」で、観る側は何も考えなくて良くて、映画から垂れ流される一方的な情報を口を開けて観ているだけで良くて、「お腹イッパイ」にはなるのかもしれないが、あれは(前作の「ボウリング・フォー・コロンバイン」を含み)ドキュメンタリーとは云えないと思う。
映画の最後で彼(監督のマイケル・ムーア)は「(ブッシュ大統領に向けて)もう騙されないぞ」みたいなことを云っていたが、私はそれを彼に向けて云いたい。独裁者というものは、民衆の味方のような顔をして近づいてきたのだから。
お台場からの帰りのバスの車中より。


医療の問題


困った事になった。
先日、最初に担ぎ込まれた取手の病院検査入院をし、「カテーテル」というヤツを入れて(考えてみればこれも凄い話だ。足の付け根から頭まで血管を通して管が行くんだから、なんて考えているうちに終わっちゃったけど。間違って別の方向{手とかもう片方の足なんか}に行っちゃわないんだろうか?)脳の写真を撮ったのだが、
その取手の病院の担当の鶴岡信先生によると、「放射線治療の効果によって病巣は殆ど無くなっている。しかしわずかだが残っていて、例えわずかでも残っている限り、そこが再び出血する可能性に変わりはない。」という事。「これ(写真)を放射線治療を受けた勝田の病院(勝田病院併設の「水戸ガンマハウス」)の治療を受けた先生の所に持参して、今後の事を伺うように」と云われた。
そこで先日(7日)、勝田(常磐線で水戸の先)の病院に父親と行った所(関係ないけど特急とは味気ないものだ)、そちらの先生には「私は消えたと思って良いと思います。逆にこれ以上何か起きては困る。」と云われた。
確かに勝田の病院の先生に云われた事は嬉しい、しかしここまで来て気を緩めてしまっては元も子もない。
これからまた取手の病院に再度伺って、意見の相違を埋めて頂くわけだが、こういう事はむしろ健全な事だと思う。医者といえども神ではないのだから、その人毎のその時点での最善の見方という物があってしかるべきだろう。 …って、冷静に何云ってるんだろう?
取手の病院の看護婦さんに、「どうしたのこれ?増田くん」と云われた足。サンダルで方々歩き回っていると、誰でもこうなります。


「健常」な障害者の悩み

一昨日の金曜日、久々に会った大学の友人に、月数日働いて事足りている僕の生活について、「障害者だから金がもらえてそういう生活が…」という事を云われた。
正直それだけは云われたくなかったけれども、口に出さずともそういう感情を抱かれているんだろうな、という事は感じてはいた。感じているであろうとも、口に出てもいない物に反論するわけにもいかないので、こういう機会を与えてくれた友人に感謝すべきなのかも知れない。
私は国から障害者の援助はもらっていなければ、親からの援助という物は受けていない。だから私の生活は自分の収入によって支えている。(そういう国家からの補助を得ている方が卑屈になる事は絶対に無い。また一個人(自分でさえ)が「自分にその資格があるのか」問う事も全く意味がないと思う。障害というのは外部から一見して判断できる物ではない。とても他人がちらと一瞥しただけで判断できる物ではない。私だってもらえるのならば欲しい。)
…大体ボーっと座っていて、二級で一種の障害者が、普通の人とさして変わらない生活をできるようになるものでもないのよ。
色々な割引というのはあるけど、それらはせめて許して。
「大変」とか「疲れた」なんて「男が軽々しく口にするもんじゃない」と思っていた(母方の実家は鹿児島、「『男』のやせ我慢」の本場)けれども、私の場合、そういうわけには行かないかもな、と。今回は心底疲れました…
これも障害者の悩み。やりたい事があってもできない「一般的な障害者」にとっては「贅沢な悩み」なのかなあ?
今夜は愚痴っぽい増田新でした。