脳動静脈奇形闘病記(病気の経緯) 12月

 朝御飯はパン食を選んでいて、ジャムとかバターがついてくるので、それでも良いのですが、元気な頃からスキッピイのピーナッツバターが大好きで、それだけスプーンですくって舐めていたくらい好きでしたので、母親に買ってきてもらい、毎朝それをつけて食べていたのですが、看護婦さんは不思議と誰も知らなくって、それ以来、スキッピイを流布するのが僕の使命みたいになっていきました。

 12月の初旬頃、頼んであったキーボード(パソコンのじゃなくて音が出るピアノの鍵盤のやつ)がきました。元気な頃ピアノをやっていたので、指のリハビリにもなるだろうということでした。何しろ鍵盤が小さくて、感覚が掴みにくい上に、1オクターブと少しくらいしかなく、すぐに鍵盤が足りなくなってしまいました。そのキーボードではハノン(音階を行って帰ってくるだけの指の練習)をやったり、落語の出囃子を弾いてみたりしました。

 年末には退院することが決まっていたので、15・16と土日を使って外泊してきました。病院の中ではずっと車椅子生活だったのですが、車椅子は持っていかず、結構不安だったのですが、杞憂に終わり、車椅子なしでも家の中を歩くことはできました。

 この頃、障害者手帳というものをもらいましたが、それがまた結構お得で、都営のバスや都電、地下鉄は無料で、JRや私鉄は半額で何もしなくても月一万幾らかもらえるというものでした。

 月の中旬に東大病院の眼科にかかったのですが、目の血の方は、年をとっていると眼球の中がさらさらの水状態で血が自然に退くこともあるのだが、若いので逆に眼球の中が固くてゼリー状のため、自然に血が退くのは難しいだろうということでした。まあここまでの調子だと手術しかないかなという感じでした。その中で、その先生の助手みたいな人が一緒に眼を覗き見る機械のようなものを覗き込んでいて、「先生、エッセンはどうします?」と云ってその先生が「いいよ、同じで」と云っていたのが気になったのですが、後で母親が大笑いしていて、訊いてみるとエッセンというのはドイツ語で食事という意味(母親はドイツ語を解す)だそうでした。

 12月の末に退院ということが決まっていたのですが、次の東大の眼科の診察が26日に決まっていましたので、診察ついでに退院してしまおうということが急遽決まりました。退院も間近になった23日頃、夕食に刺身が出て、「よくこんな命知らずなもん出すなあ」と思いました。26日は朝から車を出してくれる学校の友達と父親が早くきて、荷物の積み込みに追われました。そんなにないと思ったのですが、さすがに3ヶ月もいると色々たまってくるものです。とりあえず積み込んで車に乗り込み、本郷の東大に向かい、今度は眼科の手術によって再出血の心配があるということなので、脳外科の診察を受けました。手術は絶対やめた方がよいというような話ではありませんでしたが、出来るなら一年待って来年の6月7日以降にした方が良いということでした。その後眼科の方に行って結果を報告してきたのですが、眼科の先生は慈恵での視力検査の結果を見て、「これだったら手術しなくても良いんじゃない…?」ということでした。事実それまではパソコンを持ってきてもらってもポインタの矢印が分からず、自分がどこを指しているかわからなくて操作できなかったのですが、12pointくらいの字も読めるようになっていましたし、手紙などもそれまではもらっても親に読んでもらわなければならなかったのですが、自分で読むことができるようになっていました。ともかくそんなこんなで家路につき、退院して今に至るわけです。