七代目 春風亭柳橋氏 死去

噺家(落語家)の春風亭柳橋氏が亡くなったそうな、六十九歳。数ヶ月前から寄席を休んでいたので、もしやとは思ったが… 今の落語界では私がうまいと思う人の一人で、個人的には桂文治氏亡き後の落語芸術協会長は、桂歌丸氏よりも、この方にやって欲しかった。「顔が知れた」という意味ではかなわなかったという事なのかもしれない。
現在の落語界では、日本テレビの番組「笑点」に出ているか否かがその噺家の力になるらしい。
さてと、年寄りがくたばったのなんて気にしてないで、現像しよ。先週日曜日に撮ったフィルムがそのままだったんだ。


個人的「一難去ってまた一難」月

いや… 出費の多い月だった、十月。(なんて云っていたら明日何か壊れたりして)
携帯電話、修理から戻ってきました。基盤は無事だったそうで、中身は全く変わらず。auの決めた保証期間二年の間だったので、ユーザーの不注意(というかこりゃ意図的だな)であっても5,000円で済んだ。壊れてから二日(一週間前後と云われていたけど)、その場でかわりの機種も貸してもらえて(無償)、アドレス帳のデータも移してもらって。
競争というのはユーザーにとっては良い事です。
でもって今日、電気釜が壊れて近所の電器屋(でかい)に買いに行った。(→出費)
ア〜ンド、午後にはガラス屋さんに来てもらい、庭に面したガラス戸の戸車を既存の物と交換。もう新品は無いから他の同製品の戸車と替えるしか手はないそうな。(→出費)
Palm(CLIE)が壊れたのも今月だし、何か取り憑いてるんじゃないの?


介助者(「お友達」とも云う)は駄目なんだって


東京都現代美術館「ピカソ展−躰[からだ]とエロス−」を観に行った。
「ピカソ」である。泣く子も黙る「ピカソ」である。御大「ピカちゃん」である(かどうかは知らない)。
おなじみの「キュービズム」とか云う対象を多方面から観るように分解した絵。それが「この森の中に動物は何匹いるでしょう?」の絵みたいになっていて、とある部分が他の部分を兼ねていて奇妙に入り組んでいる(でもってあんな訳の分からん絵になるんだと思う。以上僕の解釈です。)ので、読み解こうとすると一つの絵の前に何十分も居なければならない。
「絵なんて所詮は場の空気よ」論の僕は、取り敢えず線の妙味とか印象とか、そういうのでボーっと見て回る事に決定。
それなりに楽しめたけど、こういう絵の見方にはあわないわな、この人。1,300円分観ようと、食い入るように(解説文を?)見つめている人達を尻目に、スタコラと退散。
チケット売り場周辺、至る所に「ピカソ展の障害者付き添いの方は有料となります。」の張り紙。こういうのもあるのね。一種・二種(障害者の等級?とは別に付けられた「付き添いがないとこの人行動できない」「できる」のお墨付き)とは関係なく、公立の施設は入場料が付き添いもタダになるのが普通だけど(なぜか二人まで。二人で支えなければ行動できない障害者が居るという事なのだろうか?)。


何で〜?


朝起きたら、携帯電話がまっ二つに割れていた。
昨日夜、テレビのリモコンが見つからなくて(ナゼにケータイ?)、酔いに任せてやった覚えはかすかにあるのだが…
こういう "ストレス発散" もあるのね。と他人事のように感心。
ここで僕が何か「エラい」人だったら、この壊れた携帯電話から何かを発見して一財産築いちゃったりするんだろうけど、何もしません。


休憩室も美術館のうちよ

竹橋の国立近代美術館の休憩室
竹橋の国立近代美術館に、「木村伊兵衛展」を観に行く。一応云っておくと、「木村伊兵衛」とは日本の報道写真の巨匠です。日芸の入試の時、「好きな写真家は?」との問いに「木村伊兵衛」と答えたマセガキとしては、観に行かねばなるまい。
好きな写真家なので色々な所で観るのだが、有名な作品が並ぶと、どうしても似通ってしまう。
しかもおかしな構成で、同時にやっている「近代日本の美術」に混ざってある感じ。木村伊兵衛のオマケに岸田劉生やら藤田嗣治を観るのは精神衛生上大変宜しくない。これから(木村伊兵衛を)観に行く人は、第二部(二部構成)の方を先に観る事をオススメする。こちらは一応一つのフロアで終わるから。
新宿のコニカミノルタプラザにて、『フォト・プレミオ 笹谷美佳写真展「歩く」』(11月1日まで)を観る。
「歩く人」を「横から」「小さく」「正方形の画面で」写した写真群だが、コレクション写真(一つのスタイルに従った写真を並べる事を僕はそう云う)って難しいね〜。個人的には好きな類の写真なのだが(他のギャラリーでやっていた物より良かった)、もうちょっと広がりがあって良かったように思う。制限の中でもうちょっとのびのびしても良かった。
国立近代美術館の休憩室。「こちらに眺めの良い休憩室があります」とわざわざ書いてあったから好奇心で見に行ったら、なるほど皇居を望む「良い眺め」。美術館ったって美術ばっかりそう観ていられるわけじゃないから、こういう休憩室は良いと思う。
こういう所で女のコを口説くというのは安上がりで良いかも知れないぞ?夜景きれいそうだし。5時閉館だけど。


「オマージュだそうで」(珈琲時光)


映画「珈琲時光」を観た。
「名匠 小津安二郎監督に捧げるオマージュ」というのふれこみで、「悲情城市」の、台湾の候考賢(ホウ・シャオシェン)監督の作品というのもあり観に行ってみた。
いわゆる「小津映画」は何もない普通の生活の中を捉えているが、「娘がとうとう嫁に行く」なんて感じで、絶対に何もない訳じゃない。それと「小津映画」は「何もない」内容を補うように、「作品内に張りつめた厳格さ」のようなものがあった筈だ。
…なんて観てる方は勝手な事云えるんだけどね。
しかし「誰も知らない」と云い、「演技が自然」で「演技らしくない」だったのは確か。これからはこういう撮り方(台本を直前まで渡さないで自然な演技を引き出す)が流行っていくのかなあ…?
主人公「陽子(一青窈)」の実家は、父の実家に行く時に乗る上信電鉄(群馬県のローカル私鉄)の吉井。「半落ち」と云いこの映画と云い、「高崎フィルムコミッション」とか云う奴で上信電鉄はこういう事もやってるのか。確かにローカルムード満点だわな。あの電車。
吉祥寺のバウスシアター。併設の50席しかないここは「ジャヴ50」なんて名前だったのだけど、「バウスシアター2」という名前になっちゃったのね。


車を持たない人間は生きていけないのか?

久々に駅前の金物屋「扇屋」に行ったら「閉店セール」になっていた。十月一杯で店を閉めるらしい。金物なんか、今や国道沿いのホームセンターに車で買いに行く物なのだろうか。
多少値は張っても、家庭の環境(蛇口の口は幾つだとか)を理解してくれている人がいつも居る方が、助かるんだけどな。
もう数年間続けた「日芸の情報サイト」を終了した。


色々な災難

新潟の地震で孤立した山古志村(やまこしむら)のお婆さんは、村から避難するヘリコプターから、「見納めだね」と一人ごちたそうな。「命があればいい」のは確かだけれども、それは「命しかない」と同義でもある。
昼間、TBSの「噂の東京マガジン」なる番組を見ていたら、新宿「百人町(ひゃくにんちょう)」の一角に、「グループホーム(知的障害者が共同生活する施設)」を区が作るという計画を聞いてそこの住民が組織だって反対しているという事を放送していた。
テレビや反対住民は一所懸命「グループホームが嫌なんじゃなくて、無計画な区の開発計画に反対してるんだ。」という事を強調していたけど、要は「キ○ガイが集団で越して来るなんてとんでもない」という事らしい。大体反対住民の「わざわざ車通りが多いここの土地を使わなくても。」なんて、余計なお世話だよ。


自然の脅威


利根川に撮影(と云おう)に行った。川沿いの「我孫子市総合運動公園」なるものに行ったら、台風の爪痕がくっきりと。
一面の枯れた草と、「ここまで水に浸かりました」看板。
今日夜、新潟で大きな地震があったようだ。現在の所、死者は二人だが、報道の手の届かない所で、村が壊滅状態であったりするような事もあり得るのではないか。
一回だけ、NHK総合テレビで、「どこかで地震計が壊れた」という被害を報告していたが、地震で壊れる地震計って…
役場の職員、電話取材で「地震の時はどこに居ましたか?」なんて訊かれて「仕事帰りに飲み屋で一杯やってました」という人は居ないのだろうか?なんて思いつつ一杯。


既知のマティス

上野の国立西洋美術館に「マティス展」を観に行った。「本物のマチスを観るなんて始めてだな〜」なんて思っていたら、こういう大規模なマティスの展覧会は日本では二十三年ぶりだとか。
マティスといえば「色彩の画家」というイメージだが、その通り。印刷物にすると浮ついた色になってしまうが、なんとも深い色同士の微妙な組み合わせによる作品で、「なんでこんな色使いができるんだろ…」としばし唖然。
けど「なんでこんな混んでるんだろ…」という位混んでいた。平日の昼間であるに関わらず。大抵会期が終わりに近づくと混んでくるから、早く観た方が良いかも。
「本物」の凄さを見せつけられた展覧会でした。また行こう〜