大いなる期待

先月の30日、懐かしの取手の病院に行って、血管造影剤を入れて、MRIとCT-scanを撮った。改めてそのレントゲン写真を見ると、随分出血して脳の壊れた部分が大きいのにびっくりした。奇形の部分は半分ほどに縮まって、放射線治療の効果が一年後くらいに出てくる(病巣が消える)かもしれないということ。


トロトロゲートボール

この前、いつもの散歩コースのゲートボール場の脇を通っていたら、中から「トロトロしてんじゃないわよっ!」と、仲間のおじいさんらしき人を叱っている声が聞こえてきた。その後もそのような事の嵐。そんなこと云ったって、トロトロしてるからゲートボールやってるんじゃないのか? と思った。


眼の心配

この前(といっても7日)に一時良くなっていた眼が最近また悪くなってきたので心配しながら眼科に行ったら、それは目が悪くなっているのではなく、混濁が移動しているため、その位置によって悪くなったように見えるのだろうということ。先生が眼の中を覗いて眼の奥が見えるようになってきたということなので、うまくいけば後数ヶ月で混濁は消えるだろうとのこと。ひとまず安心。
その後、友人の車で半年以上ぶりに我孫子の家に行って、色々要るものをとってきた。その時に、前から目を付けていたクロースビューというコンパネ書類の入ったシステムのCDを持ってきて入れたので、だいぶ見やすくなった。MacはOSのCDに障害者用のツールがフレンドリーアクセスという名前で入っていて、イージーアクセスという車椅子用トイレみたいなアイコンのキー操作だけで全ての操作をできるというものと一緒に入っていたのだが、そちらは別にいらないので、入れなかった。


脳動静脈奇形闘病記(病気の経緯) 12月

 朝御飯はパン食を選んでいて、ジャムとかバターがついてくるので、それでも良いのですが、元気な頃からスキッピイのピーナッツバターが大好きで、それだけスプーンですくって舐めていたくらい好きでしたので、母親に買ってきてもらい、毎朝それをつけて食べていたのですが、看護婦さんは不思議と誰も知らなくって、それ以来、スキッピイを流布するのが僕の使命みたいになっていきました。

 12月の初旬頃、頼んであったキーボード(パソコンのじゃなくて音が出るピアノの鍵盤のやつ)がきました。元気な頃ピアノをやっていたので、指のリハビリにもなるだろうということでした。何しろ鍵盤が小さくて、感覚が掴みにくい上に、1オクターブと少しくらいしかなく、すぐに鍵盤が足りなくなってしまいました。そのキーボードではハノン(音階を行って帰ってくるだけの指の練習)をやったり、落語の出囃子を弾いてみたりしました。

 年末には退院することが決まっていたので、15・16と土日を使って外泊してきました。病院の中ではずっと車椅子生活だったのですが、車椅子は持っていかず、結構不安だったのですが、杞憂に終わり、車椅子なしでも家の中を歩くことはできました。

 この頃、障害者手帳というものをもらいましたが、それがまた結構お得で、都営のバスや都電、地下鉄は無料で、JRや私鉄は半額で何もしなくても月一万幾らかもらえるというものでした。

 月の中旬に東大病院の眼科にかかったのですが、目の血の方は、年をとっていると眼球の中がさらさらの水状態で血が自然に退くこともあるのだが、若いので逆に眼球の中が固くてゼリー状のため、自然に血が退くのは難しいだろうということでした。まあここまでの調子だと手術しかないかなという感じでした。その中で、その先生の助手みたいな人が一緒に眼を覗き見る機械のようなものを覗き込んでいて、「先生、エッセンはどうします?」と云ってその先生が「いいよ、同じで」と云っていたのが気になったのですが、後で母親が大笑いしていて、訊いてみるとエッセンというのはドイツ語で食事という意味(母親はドイツ語を解す)だそうでした。

 12月の末に退院ということが決まっていたのですが、次の東大の眼科の診察が26日に決まっていましたので、診察ついでに退院してしまおうということが急遽決まりました。退院も間近になった23日頃、夕食に刺身が出て、「よくこんな命知らずなもん出すなあ」と思いました。26日は朝から車を出してくれる学校の友達と父親が早くきて、荷物の積み込みに追われました。そんなにないと思ったのですが、さすがに3ヶ月もいると色々たまってくるものです。とりあえず積み込んで車に乗り込み、本郷の東大に向かい、今度は眼科の手術によって再出血の心配があるということなので、脳外科の診察を受けました。手術は絶対やめた方がよいというような話ではありませんでしたが、出来るなら一年待って来年の6月7日以降にした方が良いということでした。その後眼科の方に行って結果を報告してきたのですが、眼科の先生は慈恵での視力検査の結果を見て、「これだったら手術しなくても良いんじゃない…?」ということでした。事実それまではパソコンを持ってきてもらってもポインタの矢印が分からず、自分がどこを指しているかわからなくて操作できなかったのですが、12pointくらいの字も読めるようになっていましたし、手紙などもそれまではもらっても親に読んでもらわなければならなかったのですが、自分で読むことができるようになっていました。ともかくそんなこんなで家路につき、退院して今に至るわけです。


脳動静脈奇形闘病記(病気の経緯) 11月

 ここに来る前から三ヶ月で出ることが決まっていて、半分の所まで来てしまいました。
 取手でもそうでしたが、ここでも散歩にはよく行きました。大抵屋上と二階に行きましたが、屋上は見晴らしが良いので好きで(といっても目はあまり見えなかったのですが…)二階は腕を入れて計る血圧計があり、それで計るのが毎回の楽しみでした。後土日は時間があったので外に行ったりしたのですが、行く途中で植え込みの中に小さな(だけど派手な)黄色いおうちがあり、ずーっと謎でした。今でも謎です。だいたい何でそんな所にそんな家があるのか、しかも普通の家でした(壁が黄色いからあまり普通じゃないけど…)。いっぺん少し扉が開いていたので覗いてみましたが、椅子があってテーブルがあって、皿数枚とフォークが置いてあって、ますます不気味で、わからなくなりました。

 この病院は(前の病院でもそうだったけど)同室の人がみな年寄りばかりで、入れ歯がないから林檎が噛めないとか、孫が来るのが楽しみだとか、こっちは子供もいないのに~ と思っていました。

 この頃にはリハビリも進んでいて、言語の方はやることがなく、手の方でもやることがないので歩く練習をしていました。


脳動静脈奇形闘病記(病気の経緯) 10月

 9月29日に狛江の慈恵医大に移ることになり、また前述の寝台車で取手から狛江まで長旅をしました。ここでは30分ずつくらい、言語・手(上半身)・足(下半身)の三つのリハビリが、日祭以外(土曜も含めて)あったのですが、だいたい午前中に終わってしまうので、午後は全く何もなく、閑でした。ここでもやはりラジオが友でしたが、取手と違って一番通路側のベッドでしたが、電波がよく入るのでそれはよかったです。あとこっちへ移ってからはCDウォークマンが加わり、我孫子の家から持ってきてもらったCDを聴いたり、母親に図書館で借りてきてもらって落語を聴いたりしていました。おかげで落語には色々詳しくなり、出囃子を聞いただけで誰だか分かるようになりました。

 ここもまた御飯がおいしいので有名らしく、不思議と御飯運(そんなものがあるかどうかは知らないけれど)は良かったです。


脳動静脈奇形闘病記(病気の経緯) 9月

 8月30日から9月1日まで勝田の病院へ行って放射線治療(ガンマ・ナイフ)をやるのですが、御存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、勝田というのは茨城でも水戸の向こうで、千葉との県境に近い取手からはかなりはなれています。行き帰りとも寝台車という担架で寝たまま移動できる車で移動したのですが、手術より簡単な検査みたいなものだと思ったらあにはからんや、結構大がかりで、行ったその足で(って別に歩いて行ったわけではありませんが…)耳たぶをちょこっと切って血が固まるか検査をしたり、注射したりでいろいろ大変でした。

 翌日はいよいよガンマ線をあてる日でしたが、朝からいきなり手術着に着替えるように云われて、「こりゃまるで手術じゃないか…」と思いました。治療そのものは全く痛くなく、すぐ済んでしまうのですが、頭が動かないようにかなり重いわっかのようなものをつけるのですが、それを固定するために頭蓋骨に四つ穴を開けて、それが痛かったです。まず麻酔の注射をその穴を開ける四つの場所と肩に一カ所ずつやるのですが、これが恐ろしく痛く、その後、穴を開けるために木工用のドリルのようなもので頭をグリグリやって穴を開け、注射ほど痛くはなかったものの、かなり気持ち悪かったです。後、この時血管造影剤を入れたのですが、事前に聞いていたところでは、血管造影剤というのは、体中に造影剤が廻っていく感触がして、かなり気持ち悪いものということでしたが、ここではとてもうまい人がやるらしく、注射したのも分からないくらいでした。

 このわっかをしてしまうとそれまでしゃべらずに首の動きでうんとかいいえを表していたのを、お医者さんに「動かないから喋らないと駄目だよ~」と云われ、全て喋らなくてはいけなくなったので、取手の病院に帰ると、「言語のリハビリに行ってきたみたい」と云われるほどになってしまいました。

 この月はあと次のリハビリ病院をどこにするかを決めねばなりませんでした。取手の鶴岡先生には、もう脳外科としてはやることはすべてやったので、あとはリハビリ病院を探して。と云われていました。茨城県の県立医療大のリハビリセンターもあるのですが、ここは荒川沖にあって、母親の勤務先は羽村なんだけどかなり遠いし、駅からまたすごく遠い。東京都のリハビリテーション病院というのが墨田区にあるのですが、ここは病院ではないので、脳外科はないし、六十何人待ちといういつになるか分からない様子でした。ここで紹介されたのが狛江にある慈恵医大の第三病院で、ここなら6人待ちとかその程度ということ。結局ここにすることになったのだが、移る話はまた次の章で。


脳動静脈奇形闘病記(病気の経緯) 8月

 半ばくらいから普通の意識状態に戻り、小泉首相の靖国参拝のニュースを聴いた覚えがあります。一応区切りとしてこのあたりを意識が戻ったとしているのですが、それまでは意識というのものはここまでは意識が無くってここからは意識があるというように、段があって変わるように思っていてのですが、実際はそういうのはなく、結構ゆるやかな曲線で、だんだんと意識が戻るような感じです。実際僕も後から「こうしたらこうした」と人に云われるのですが、全く覚えていないことも結構あります。それにこれはあとからリハビリの先生に聞いた話ですが、御世話になりました、とか云っているくせに後で会うとあんただれ?ということが結構あるそうです。だから周りの人が意識があると思っていても本人は意識して反応しているわけではないということが結構あるようです。

 ともかく、意識が戻って来たのですが、色々びっくりした事もありました。PHSだった人が携帯を持っていたり、何も持っていなかった人が携帯を持っていたり、なにより両親が何も持っていなかったはずなのに二人とも携帯を持っていてびっくりしました。このころ、眼球の中に血が混じってしまうテルソン症候群だということもわかりました。これもまた珍しい病気だそうです。それとこの時は未だベッドに寝たきりの状態で、車椅子に移るのも大変な状態でした。赤ちゃんのように首が座らなくって、むち打ちの人が首にやる支えのようなものをしていた時期もありました。

 この前後、病巣を取り除いてしまうけれども、失敗したり合併症が怖い手術にするか、効果が出てくる2,3年後までは何もしないのと同じでそれまで再出血の危険がある放射線治療にするか、選択を迫られるのですが、結局悩んだ末放射線治療にして、それを受けるために勝田の方まで行くのですが、それは次の章で。


脳動静脈奇形闘病記(病気の経緯) 7月

 7月は本人も意識が無いし、特に変わったこともないので、書くことがないので、この病院のスケジュールみたいなものを紹介します。朝御飯は8時で、それまで寝ていてよく、昼御飯が12時で、夕御飯が18時でした。ここは恐ろしくド田舎で、周りは田圃だらけでしたが、取手協同病院という農協系の病院でしたので、食事はかなりおいしかったです。僕はそれまで朝11時に起きて夜2時に寝るようなかなりルーズな生活をしていたので、最初はそれにあわせるのがすごく大変でした。後、意識がもどってからも目が見えないので、暇つぶしはラジオでしたが、この病院は窓際でないとAMのNHK第一放送も入らないという恐ろしい所で、いつも窓の枠にラジオを置いて、聴いていました。

 この頃、ICUから個室に移り、大部屋に移っていったようです。本人は全然覚えがないのですが、看護婦さんをつねったりしていたそうです。