懐古趣味って難しいよね(佐賀のがばいばあちゃん)(胡同(フートン)のひまわり)

映画「佐賀のがばいばあちゃん予告編)」を観た。佐賀のおばあちゃんの元に預けられた少年の数年間の成長の物語。
ALWAYS 三丁目の夕日」と同じく、現代人が懐古した「昭和三十年代臭」がプンプンする映画。貧乏だけど例によって人々は皆あたたかくて…という感じ。
胡同(フートン)のひまわり予告編)」は、日本の昭和三十年代のような古い町並みが残る北京の路地「胡同(フートン)」で暮らす、一つの不器用な父子の物語。
こちらも、やもすると前述の「佐賀のがばいばあちゃん」のように「んな…」「ウソっぽい」話になる危険をはらんだ世界なのだが「胡同(フートン)のひまわり」がウソっぽくない映画になっていて、それによる深い感銘を観る側に与えているのは、負の部分まで含めてその世界を直視しているからに他ならないと思う。
「胡同(フートン)のひまわり」では、地震でそのボロい家々は被害を受けて長い避難所暮らしを余儀なくされるし、うるさいオバサンはいるし、他人との距離が近いからこそ他人のウラの部分まで見えてしまう。
「佐賀のがばいばあちゃん」では、クサくて、汚かった筈の「昭和三十年代」が、まるでテーマパークのように美化されて、私たちが頭の中で懐古する(「懐かしい」という感情は必ずしも本人がそこに居合わせる事によって発生する感情では無いようだ。)正しい「昭和三十年代」だけが提示される。
「胡同(フートン)のひまわり」の母親は、この古い胡同(フートン)を抜け出して新しいアパートに移りたくて仕方ない。しかし父親はこの土地に愛着を感じ頑強に居続ける事を望む。遂に両親は偽装離婚して、父親はここに一人で居続ける。そして自分を裏切って離れていった(という事ではないと母親は自分では思っているのだが)母親に対してとった破滅的な行動… そして救われる事のないまま終幕。


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