柏駅最後の映画館へ

柏松竹が無くなり、神社の横を入ったシネマサンシャインも無くなり、残る柏駅の映画館は髙島屋の一階にあるステーションシアターだけとなり、大きいここは数年間頑張っていたが、つくエクが開業してその沿線に大きな郊外型のシネコン(これとかこれとか)が建ち始めると、常磐線の柏駅で映画を観る人も少なくなり、昨年ついに廃業して、柏駅は一軒も映画館が無い駅になってしまっていた。
今年に入ってそのステーションシアターの後に、雑誌 キネマ旬報 が補助するTKPシアター柏というのができて、「舟を編む」を観に、今日始めてそこに行ってみた。上映スケジュールを見たら、フィルムでなくデジタル上映という事で心配していたのだけど、数年前に松戸や龍ヶ崎の小さい映画館で観たのとは違って、ギザギザもしてないし、顔をずらしても三原色の残像がちらついたりしない、フィルムと全く区別の付かない映像で良かった。
作品自体は、「辞書を作るのって大変なんだなあ」という以外心に残らない、いや決して良くない映画という訳では無いのだろうが、淡白な物だった。「おくりびと」とか「たそがれ清兵衛」を観た時の様な後味。


柏最後の映画館

五年ほど前まで柏には、柏松竹と、神社の脇を入った柏シネマサンシャインと、柏の駅ビルの一階にある柏ステーションシアターの三つの映画館があったのだが、柏松竹と柏シネマサンシャインの二つが無くなり、柏に残る映画館は柏ステーションシアターの一つになってしまった。
(16号沿いのトコだとか、つくばエクスプレスのシネコンだとか、”市内”にあると言えばあるのだが。)
スクリーンの数も三つで、バクチを打つ訳にも行かずほぼ確実に当たる(ポケモンとかハリウッド大作とか)作品をかけつづけて続けていて、それらを観る時以外行くことはなく、映画を観る時は亀有のシネコンか、いっその事銀座に出てマイナーな映画を観ていたのだが、ふと一昨日、「今は何をやっているのだろうか?」とホームページを覗いてみたら、ここもついにどうやら閉館するらしく、数年前の映画を500円で見せていた。
土曜日は閑だったし、涼むのに良いかと特に観たくなかったけれども他の作品「THE 有頂天ホテル」「ALWAYS 三丁目の夕日」が既に公開時に観た物だったので、「永遠のマリアカラス」を観に行った。
使っている革の財布の角がすれて来て、布の様な物が出てきてしまっていたので文句を言いに行こうと、映画を観る前に買った高島屋の紳士雑貨の所に行った。
革は布地の様な物を挟むんだかなんだかで、それが出てくる事があるそうだ。三年も使っていれば仕方ないのだそうだけど、出てきた糸を切ってもらったら大分見栄えが良くなった。それで帰っても良かったのだけど何か悪くて、結局名刺入れを買ってしまった。
映画館は500円で土曜日だというのにそんなに人も居ず、席の半分ほど埋まっただけだった。ここで映画を観た後は隣のミスタードーナツで休憩するのが毎回の決まりとなっていたが、そちらは既に閉店していた。


デジカメ購入騒動記(大鹿村騒動記)

映画「大鹿村騒動記予告編)」を観た。
農村歌舞伎(地芝居)で有名な長野県の山あいの寒村で繰り広げられる芝居本番前数日のドタバタ。
数十年前奥さんに逃げられた、主役景清を演ずる予定の原田芳雄の前に、逃げた奥さん(大楠道代)と、そそのかして駆け落ちした間男(岸部一徳)がノコノコと現れる。
僕は学校で演劇学科の授業「日本芸能史」という授業を取っていて、農村歌舞伎(地芝居)への興味が継続していたので、この映画は観るつもりだったのだが、公開数日で主演の原田芳雄が亡くなり、彼の最後の作品という事で、妙に話題の映画になってしまった。
現れた奥さんは脳が萎縮して記憶を無くしつつあり、奇行も目立ち、間男は手に負えなくて、元の旦那の所に返して自分は自由の身になろうと誠に調子の良い事を考えている。
というのがこの映画の一つの表立った筋だが、あくまで主役は農村歌舞伎。村全体が無理矢理にでも一丸となり、それに従わなくてはいけないという空気をネチネチと書いても良かったのかもしれないが、「こんな単純なもんじゃないよ」と言われても、それを敢えて田舎のファンタジーとして描いたのが気持ち良い。一年に一度の村の一大イベントとそれを見る村人の姿は面白い。そして、地平線も無く、田んぼも無く、大河も無い、山間の寒村の景色は美しく、映画館のスクリーンにそれが映し出されると圧倒される。僕が小さい頃から山間の寒村に触れてきたからかもしれないが。
6月20日に価格コムで一番安い店を節操も無く探し注文した新しいデジカメは、結局僕がその時思いつきで問い合わせた「コンビニ払いにしたけどカード払いに変更できない?」というメールのせいで注文がキャンセルされていたらしく(だのにキャンセルされた後にコンビニで代金を払う事はできたので、それで安心していた。)、また今日発注し直したそうで、だけれども地震の影響で生産ラインが止まっているとかで、いつ発送できるか分からないとの事だ。
価格コムを見てみたらそのデジカメ(Fuji Finepix X100)の最安値は他の店に移っており、最初に注文した6月20日の数千円高い値段で買わねばならない事になんだか納得がいかない。
納得がいかないけれども仕方が無い。そのまま十数万円をそしらぬ顔でネコババされてしまうより良かったという事なのか。聞いた事も無い「アット・ニフティ ストア」なんて店から商品を「安けりゃいい」と購入しようとするとこんな目に遭うのか。


シネコンについて考える(マイ・バック・ページ)


映画「マイ・バック・ページ」を観た。
映画評論家の川本三郎氏が若い頃、感情に流されて、過激派の人殺しに手を貸してしまった事実を淡々と描く。
「Always 三丁目の夕日」に代表される様な回顧の対象としての美化された「昭和」でなく、髪型も服もダサく野暮ったい「昭和」を丁寧に描いていて良い。
「理想に燃える若き革命家の過ち」ではなく、単に「セクトの親玉として名を馳せたい」とマスコミ(=アサヒジャーナルの川本三郎)を利用してのし上がろうとする犯人の過激派を、松山ケンイチが怪演。
僕の他には二人と、予告編上映中に駆け込んできた二人連れが居たのみだったけれども、このMOVIX亀有というシネコンでは、このいかにも客の入りそうもない暗い邦画を上映しても、他の「アンパンマン」やらハリウッド大作やらで十分稼いでいるから構わないのだろう。
一度にせいぜい数個の映画をやっている映画館ではとてもできない芸当である。
帰りは国道六号線まで歩いて金町駅行きのバスに乗る。


「オリジナルとリメイク版を見比べる(13人の刺客)」

昨日池袋の新文芸坐で、昨年の三池崇史監督によりリメイクされた「十三人の刺客」と、その元となった1963年東映の、片岡千恵蔵主演の白黒「十三人の刺客」の二本立てを観た。
話のテンポは1963年版の方が良かった、楽しかった、爽快だった。なぜあの頃のチャンバラ映画って面白いんだろう。
戦闘シーンは2010年版の方が良かった。残酷で、派手で。
けれども戦闘シーンに早く行く為に話を駆け足で進めたのは面白さを削いでいたと思う。
大名を殺す機会を伺っている刺客集団が、余りに警備が厳重なので、歯噛みしながら大名行列を見逃す所をエピソードを丸々削ったのはどうかと思った。あの話があるから先の宿場町で本懐を遂げて斬りまくる時の爽快感が増すのに。


新宿で映画など

どうも抜き差しならない事があったけれども、それも先週かたがつき、今日は新宿の小さな映画館に「「THE WAVE (ウェイヴ)」」を観にきた。
映画館の指定席券を買ってから、コニカミノルタプラザに行く。岡田雄二写真展「続北関紀行」は、北関東(本人曰く殆どが埼玉県北部の写真だそうだが)の乾いた、何もない、土の匂いが出ていて良かった。
ずーっと、これはネガからのプリントだと思っていたのだが、後で訊いたらデジカメで撮った写真をインクジェットプリンタで焼いたそうで、インクジェットプリントの画像というのはもっと黒が出ない物だと思っていた僕としては、これは一つの暁光であった。
三丁目に戻り、映画館へ。
嫌々ながらも一週間、「独裁」の授業を担当する事になった男性教師、「独裁」とは何かを教える為に、教室の中に独裁国家を作り始める。
まず自分を指導者とし、授業中先生には「様」を付け、発言する時は起立して。皆で足並み揃えて行進し、仲良しグループを引き離して勉強のできる者、できない者を隣の席にする事でクラスの団結を生み出す。 そして制服を作り、集団名「WAVE (ウェイブ)」を決める。
しかし団結と規律の思考停止の快感に酔いしれ始めた生徒たちが、クラスの外でも「ウェイブ」として歩き回り始める。
「ウェイヴ」以外の人間を自分たちから阻害するようなことに始まり、「ウェイブ」のマークを作りそれを町中の至る所に誇示し、本物のギャングと喧嘩をし、町のシンボル的建物にもそれを大書する。
もはや先生の手の終えない所まで「ウェイヴ」は突き進んでいた。
そして最後の授業、講堂に「ウェイヴ」を集めると、彼に従って「護衛」を買って出る生徒にドアを全て閉めさせ密室状態にして、彼(先生)は話し始める。静かに、しかし段々と声も、身振り手振りも大きくなって、「ドイツは腐っている!」「大企業が!」「失業者は!」…
彼自身、皆に崇拝され持ち上げられる独裁者としての立場に酔ってしまっていたのだった。
新聞や雑誌の評では、この先生の意外な豹変までは語っていない。ただ「思いもしない結末へ」としか書かれていない。私はここまで書いたけれども、映画は更に意外な結末へと進んでいく。
最近、ハリウッド系の大作映画に多い、観客を裏切る為だけの無理矢理な結末、ではなく、この映画は意外さと共に「あぁ、なるほどね…」という何とも複雑な気持ちになる。
以前友人に誘われて見に行った「天使と悪魔」は、犯人が分かった時、「意外」というよりも「唖然」。「それはないぜ」という気持ちしかおこらなかったけれども。


「レッドクリフ Part II」

Ario亀有の武蔵野茶房のあんみつ
映画「レッドクリフ Part IIgoo映画による紹介)」を観た。
前・後編に分けてとは言え「三国志」をよくまとめたと思う。
描かれるのが「三国志」という壮大な物語の前半のクライマックス「赤壁の戦い」とその前だけというのは「三国志の映画化と言っておいてそれだけか」とも思うけれども、逆に「赤壁の戦い」だけで「三国志」を描ききってしまわねばならないというのは大変だったと思う。
もう戦国物のドラマや映画にはおなじみとなりつつあるクライマックス、
燃え盛る曹操の陣の中で向かい合う 劉備・関羽・張飛・趙雲・孫権・周瑜、対、曹操。
物語の通り、「曹操は逃げていきました、ちゃんちゃん。」じゃ一本の映画として何とも締まらないからこの変な盛り上げ方も仕方ないか。
ただ、これはこれだけ金と人をかけて映画を作る以上、大ヒットしなければいけない訳で、その為の保険なのかもしれないが、三国志を「愛のために戦う」みたいなドラマにする部分があったのは残念だった。
やっぱり監督自身それは嫌だった様で、そういう要素は上記の、最後の「○○サスペンス劇場」で全員集合で犯人説得みたいなシーンに集約されている。
台詞が英語じゃなかったのは良いと思うが、それはそれで現代中国語で『敵軍が陣を張るのは「トイメン」』なんて言われるとずっこけてしまう。
ともあれ、凄い映像だし、凄い音響だし、三国志映画として素晴らしい出来だと思う。
ただ、三国志という物語は、魅力的な人物が縦横斜めに絡み合うとても面白い長編物語なので、この映画を観て、それから吉川英治の三国志でも読んでより深く三国志について知って頂きたいと思う。
亀有のアリオで映画を観る時には、いつも観た後寄る、亀有駅側の出口の側にある「武蔵野茶房」のあんみつ、抹茶が付いてくる。


短編アニメーションの上映会へ

mixiで情報を得て、溝ノ口の公民館(川崎市高津市民館というらしい)みたいな建物に行ってきた。
短編アニメーションは、小規模ながら珠玉の作品が多いのに、鑑賞する機会が少ない。それを無料で見せてくれようというのだから、東京を跨いで向こう側の溝ノ口だろうと、行かない手は無い。
●しくじりさるくん(中国)
●プカドン交響楽(アメリカ ’53)
●ママ!?ママはどこ? -おたまじゃくしの大冒険-(中国 ’60)
●クラック(カナダ ’81)
●歩く(カナダ ’68)
●ペンギン(ソ連 ’68)
●虹に向かって(日本 ’77)
やはり「クラック」は良い(と思ったらここで全編見られる… 良い時代になったものだが、なんか複雑な気分。色鉛筆のざらざらしたタッチは消えてしまっているけれども、是非一度見てほしい。)。フレデリック・バックの作品には他に「木を植えた男」等あるが、これが一番好きだ。
「虹に向かって」は岡本忠成の人形アニメーション(この上映会はこの人のコミュニティで知った)だが、こういう手作り感のあるアニメーションはもう作られないのかな。
明日は我孫子の家の居間のふすまを取り替える(唐紙が剥げてきているだけでなく、枠もボロボロ、裏のベニヤも剥げかかっている。)のに、昼から建具屋さんが来るので、早く帰って多少は掃除しないと。


「悲夢」

映画「悲夢予告編goo映画の紹介)」を観た。
キム・ギドクの映画は好きで大抵観ているのだけど、今やこれほど監督の名前だけで客を呼べる人も居まい。しかも毎回「極限の異常な愛」というテーマで。
毎回「極限の異常な愛」を見せられると分かっていながらそれを楽しみに行くんだから、キム・ギドクファンはマゾヒストか、それに理解のある歪んだ人間で、キム・ギドクの映画はSMクラブみたいなものか?
主演のオダギリジョーは日本語で喋り、それを意に留めず他の韓国人出演者は朝鮮語で話す。
この「暗黙のルール」で、文楽の人形の使い手が裃(かみしも)を着けて顔も出して人形に寄り添っているのに観客はそれを気にしない、というのをなぜか僕は思い出した。
最後に、購入したパンフレットのキム・ギドクの文章が良かったのでその冒頭から。
人はだれもが美しい愛を望みます。はじめは、心が騒ぎ幸せなものです。しかし、時の経過とともに、人は嫉妬と憎悪で傷つけ合うようになり、その記憶に苦しめられることになります。私はそういった「愛」に関するものがたりを、”夢”と”夢遊病”をテーマに作りたかったのです。…
こういう言葉が吐ける大人になりたいものだ。


「おくりびと」について

一週間ぐらい前、映画「おくりびと予告編goo映画の紹介)」を観てきたのだが、方々で「ありゃ良いよ」「近年稀にみる佳作」等という評価を聞くにつけ、そうなのだろうか?と思う。
「おくりびと」は東京でチェロを弾くオーケストラの団員にまでなったものの、突然オーケストラが解散になってしまった本木雅弘が、故郷山形に妻(広末涼子)と共に帰って、山﨑努の下で納棺師として働き始める物語。
「納棺師」とは葬儀屋ではなく、葬儀をする為、布団の上の遺体を、体を拭いて着物を着替えさせ棺に納める仕事をする人。
皆が嫌がる仕事をして、自分の仕事を理解してくれない妻との関係に悩みつつ、小さい頃から世話になったおばさんを見送り、自分を捨てた父親の死を聞き、葛藤しつつも結局自分が行って「旅立ちのお手伝い」をする事を決心する。
内容はそれだけなのだけど、それら全てを極めて感情的に演出する事で、ドラマチックで壮大な物語に仕立て上げる。そういう映画にしか私には見えない。
こういうドラマは「何かあった」様な気がするけれども、面倒なところを避けて都合の良い様に物語を進めているから、その感動は薄っぺらい。
本木雅弘は夢破れて故郷に帰ってきて、取り敢えず妻も居るし、田舎で東京帰りが職に就かずふらふらしてる訳にも行かず、山﨑努の納棺会社?に入る。
しかしそれは狭い田舎での事、東京に行った本木雅弘が帰ってきて納棺師をやってるなんて噂はすぐに広まる。
道を歩いていると同級生が奥さんと子どもを連れてやってくる。近づいて同級生の子どもに話しかけようとすると、無理矢理脇へ連れて行かれその同級生から本木雅弘は「お前がそういう仕事やってるって、もう町中の噂だぞ。」と小声で告げられる。
凄く印象的なシーンなのだが、その後は、周囲の白い目→妻の無理解 に話がすり替わって、妻が夫の仕事に立ち会う事によって、何となく夫の仕事を誇りに思う様になって、万々歳。
妻が夫の仕事を理解したとしても、町の人や親戚を納得させる事は別問題なんじゃないの?と思うのだ。
見ていて思ったのだが、山﨑努という人の物を食べる演技というのは凄い。ムシャムシャ、ガツガツ食う。
いや決して映画としての評価が低いわけではなく、皆が諸手を挙げて賞賛するので、「それほどでは無いのでは?」と思った。