ドタバタ


昨日、柏に出て「THE 有頂天ホテル」を観た。
公開すぐ銀座に観に行ったものの、朝一番から混んでいて観られなかった因縁の映画。
顔ぶれも豪華だし、公開前から諸メディアに露出の高い作品で、かなり期待して行った。
面白かった。面白かったが期待のし過ぎだったのだろうか。「笑うぞ、笑うぞ。」と肩を怒らせて行ったのがいけなかったのか。どうもそれほど。
豪華な配役が交差する群衆劇で、その交錯が妙味であるべきだし、でなければ個性的な俳優を並ばせる意味は無いと思うのだが、どうもうまく交錯していない。絡み合っていなくて、最後までドタバタして終わってしまう。
帰りは駅から家まで歩いた。分かれ道の神社。


「生きる!シングルマザー」(スタンドアップ)

映画「スタンドアップ」を観た。
いや本当は、秋葉原に用があったので銀座で「THE 有頂天ホテル」でも観ようと朝一の回目指して行ったのだが、恐ろしく混んでいたので、近くでやっていたこちらにしたのだ。隣の映画館でやっていた「SAYURI」の襟が逆(左前)の着物とか、ライターの様に「ボッ」と火が点くという火打ち石にも興味があったのだが、その為に千円払うのは何なので…
暴力をふるう夫から逃げ出し、二人の子どもを育てる決意をして実家に戻る女性。けれども両親の世話になっているわけにもいかず、すぐに鉱山で鉱夫として働き始める。
けれどもそこは男の職場で、ようやく最近裁判所の決定にしぶしぶ従って女性を受け入れ始めた所。十人にも満たない女性達は、卑猥な言葉・行為を浴びせられるのが日常茶飯事。男の方も単なる物珍しさや興味ならまだしも、男性の職場を奪った存在として見ていて、セクハラは陰湿を極める。だが職を失う事を恐れて、仲間である筈の女性達でさえも、口をつぐむ。
女性は男性の一人にレイプされそうになり、遂に会社に対し訴訟を起こす。
単なる男性優位の職場のセクハラに立ち上がる一人の女性。ではなく、一人で、その手で、裁判の具にされそうにさえなる子ども二人を養おうとする強い女性の物語。「メラッ」とくる強さでは無く、底に秘めた力強さがある作品。


「犬と人間の距離」(天空の草原のナンサ)

映画「天空の草原のナンサ」(日比谷シャンテ・シネにて公開中)を観た。
モンゴルの草原に暮らす家族の元に学校の寄宿舎から一時戻ってきた小さな六歳の女の子、ナンサ。
ナンサは(燃料にする牛の糞を拾って来るように)用事を言いつけられたのに、犬を拾ってきてしまう。
父親は捨ててこいと云い、ナンサはイヤだという。
だだっ広い風景と、拾ってきた小さな女の子ナンサにしても、犬を溺愛しない距離感が心地よい。
犬も犬で、最終的に弟の命を救い(単に自分の身の危険を感じただけ?)、晴れて新しい所に一緒に連れていってもらえるようになったにも関わらず、めんどくせーなーと云わんばかりにブラブラと立ち止まったり、あくまでマイペースで付いていく。
けれども最後はそれで終わりで、ナンサが寄宿舎へ戻って、犬がどうなったかは分からない。
別に僕は犬に限らずペット嫌いじゃあ無いしむしろ大好き。人見知りする友人宅の犬や猫にも好かれたりするのよ。只ある程度の距離を持って接しないと(特に犬は)いけないという話。
なんて思いながら秋葉原のPRONTOという昼間喫茶店のバーでウイスキーロック中。


「時代の臭いをコピーできるのか?」(ALWAYS 三丁目の夕日)


映画「ALWAYS 三丁目の夕日」を観た。
昭和三十年代という、「豊かでは無かったけれど、明日への夢があった。」時代に懸命に生きる人々の姿。
ってんだけど、昭和三十年代の良い所だけをすくい取って、「これがあの頃」って云われても、それは違うだろ!と私は思うわけですよ。こんなんで感動するのは、「プロジェクトX」観て「あの頃は…」と涙を流す程度のオジサマ方か、「これが昭和三十年代」と見事に勘違いしちゃう若者(これが一番怖い)ぐらいのものですよ。
「特撮を駆使して昭和三十年代の町並みを…」というのもどうも首をかしげざるを得ない。いや、非常によくできているとは思いますよ。けれども、「時代の臭い」というのか、そういう物という点では、とても(今NHKの衛星放送で再放送しているけれども)寅さん(「男はつらいよ」)の初期の作品(あれは時代が下るけれども)にはとても適わないと思うのですよ。例えばさくらのマニアックな白いハイソックスであったり。
ストーリーは至って陳腐。引き取った孤児を(なぜか?昭和三十年代だからこそ、あんなに簡単に他人の子を引き取って面倒見るなんて事はしないんじゃないかな?)育てる吉岡秀隆、その孤児が実はお金持ちの子どもで、(案の定)黒塗りの車で引き取られていくのだけど、結局その子どもはお金持ちの家を捨てて貧乏な吉岡の元に戻ってくる。涙々。
同じような戦後の孤児の話だと、小津安二郎の「長屋紳士録」(感想ページ)の方が遥かに良いですよ。たらい回しにされる子ども、幾ら邪険にされようとも、誰かにすがるより他ないのだから。
そこには、「男はつらいよ」と同じ様に、同時代の世話物としての現実感がある。
ストーリーとしては他にも色々エピソードがちりばめられているのだけど、その一つ一つに胡散臭さが付きまとっている。
ともあれ、この映画が「癒し」として現在の自分を消極的に肯定する機能は果たしているのだろう。
庭の草刈りをしていたら見つかった、みょうがの花、こんな花が咲くんだ。


「くにゃくにゃまあ」(コープス・ブライド)

映画「(ティム・バートンの)コープス・ブライド予告編)」を観た。
「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」みたいな人形アニメーションの、(「チャーリーとチョコレート工場」に続いての)ティム・バートン映画。
最近の人形アニメーションの流れとしてそんなもんなのかもしれないけど、只ぴょんこぴょんこ動き回るのは、なんかセルアニメーションの人形版みたいで頂けない。顔の表情がコロコロ変わるのは粘土かCGの様で気持ちワルいし。(予告編は圧縮されているのでかなりのっぺり感があって余計その様に見えるが。)
人形アニメーションというのはね、抑制された動きの中でこそ… ってのは古いのね。やっぱトルンカ(チェコの巨匠、DVD持ってる。)の方が良いや。


「ウソがウソの映画」(チャーリーとチョコレート工場)

映画「チャーリーとチョコレート工場予告編)」を観た。「バットマン(「リターンズ」まで)」や「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」の、楽しいけど、ちょっとコワい、ティム・バートン的世界が濃縮されてめくりめく展開する映画。
工場の内部を案内して行く先のその部屋毎に、ウソの世界が本当にウソっぽくあって、本当に楽しい。
最後は「結局それかよ」的結末なのだが、まあそれはいい、本当に「それはどーでもいい」楽しい映画。


内戦、内戦、また内戦。

新文芸坐にて、1979年(昭和54年)のギリシア映画「旅芸人の記録」(テオ・アンゲロプロス監督)を観た。
以前、同監督の最新作「エレニの旅」を観て、過去の作品も観てみたくなったのだ。
そして今回昨日と今日(月曜と火曜)のみ、この映画をやると知って、行ってみた。行ってから気が付いたのだが、上映時間四時間。はっきり云って退屈です。でも観て良かった退屈。
物語は近代のギリシアの歴史絵巻。第二次大戦でドイツに占領され、やっと出て行ったと思ったら今度はイギリスが来て、ギリシア人同士の対立を煽られ、内戦、内戦、内戦。
何が退屈かって、戦争→平和→歓声→銃声→… とひたすら続くだけの数十年で、もうイヤになってきます。ホント人間ってバカだなあと思うと同時に、一旦この悪循環の輪の中に入ってしまったが最後、抜け出すのは並大抵の事ではないという事。


「仲間にならないのなら殺すしかない」

新聞屋さんに柏の某映画館の券もらっていたけど、何か観たいのが無かったので、「スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐」を観た。
取り敢えず分かりません。これまでの作品を観ていないと置いて行かれる映画度No.1です。
でも心に残った一言、昔の仲間を裏切った主人公の若い男が裏切らなかった奴に「ライトセーバー」とかいう蛍光灯に取っ手が付いた様な武器を持って云う言葉「仲間にならないのなら殺すしかない」。
そんな現実のアメリカを思わせる様な、悪の存在が面白い逸品。


虐殺の歴史を美化する映画

映画「ヒトラー 〜最期の12日間〜」(予告編)を観た。
今まで(とかく西欧では)、ヒトラー=悪 で、その間の思考を許さなかったむきがある(ユダヤ人の「努力」によって)が、この作品はそのヒトラーの内面に光を当てた映画。と云いつつも、その「光を当てる」部分が、その台頭や大量虐殺を通り越して劣勢となって地下壕に隠れている「最期の12日間」だけに限定しているのも疑問に思ってしまうが。
ここで描かれるヒトラーは、「大いなる野望」を抱いた尾羽打ち枯らしたヨボヨボのおじいさんであって、もはや独裁者というのは過去の事だけである。
この映画にひかれたのは、予告編に引用されたこの論評。大抵「すごい」とか「すばらしい」というような宣伝文句のみを並べる所なのに、
「ドイツは虐殺の歴史を取り繕い美化しようとしている。(エルサレムポスト紙 イスラエル)」
という一言を持ってきたのはなんともはや、悔しいけれども、このイスラエルの新聞と僕は、あちら側の意図に見事にはまってしまった。
脚本の「ベルント・アイヒンガー」が、「この脚本を書いている内に、ヒトラーが段々と魅力的な人物に見えてきて、恐ろしかった。」というような事を云っていた(という新聞記事を見た)。