「世話物」(魂萌え{たまもえ}!)

映画「魂萌え(たまもえ)!Yahoo映画情報の紹介goo映画の紹介)」を観た。
観ていて、先日新聞で見た「夫が死ぬと、女房が長生きする。」という記事を思い出していた。
風吹ジュン演ずる、夫に先立たれた五十代の主婦は、夫が十年隠していた愛人の存在を死後知って、その事に狂うように怒るが、彼女はその怒りをエネルギーに変えて新しい人生を歩み出す。
大時代で無い、いわば世話物でそれほど注目も集めないだろうけど、僕は好きだな。昨年の夏に観た「いつか読書する日」とかこの作品とか。


「御都合主義」(武士の一分)

昨日、映画「武士の一分(いちぶん)goo映画 による紹介)」を観た。
以前観た、「たそがれ清兵衛」と同じ藤沢周平作品の山田洋次監督による映画化。
原作を読んだことが無いからどちらが悪いのか知らないが、相変わらずご都合主義のストーリー展開。
一番おかしいのが、主人公のキムタク演じる目の見えなくなった下級武士が、身よりのない、帰るところのない奥さん(身よりのないその奥さんをめとったからキムタクは偉い、みたいな話もあった。)を夜、家から叩き出し、怒りの原因が解けて戻ってくる
(これも下男の笹野高史{良い味出してる}が奥さんが居なくなって大変だから飯炊き女を雇いたいと言う→
連れてきた飯炊き女が作ったおかずを盲目の下級武士が口にする→
「これは○○{←奥さんの名前}の味ではないかっ!」→
感動)
のだけど、家を追ん出されて数日間、どうやって雨風をしのいでいたのかは最後まで全く語られない。


「戦争への意欲」(麦の穂をゆらす風)

映画「麦の穂をゆらす風予告編goo映画 による紹介)」を観た。
アイルランドの、イギリスからの独立を求めての悲しい歴史の物語。
休戦協定が結ばれ、北部を残したままの独立という話に釈然としない、「あくまでも全面的な独立を手に入れるまで戦い続けよう派」の一人は、「ここで戦いを止めたら、二度とここまで戦いの気運が盛り上がる事はない。」と言う。現在の国境を見たり、IRA(反英武装組織アイルランド共和軍)が一部の過激なテロ集団と世間から見られている事を考えれば、それは明らかな意見だったのだが、
「戦いの気運」や「個々人の戦争への意欲」というのは、肉親が殺されたり、家が焼かれたりした事に対する敵への憎しみだったりするので、そこは抑えて、いやそう簡単に抑えられるものでは無いのだろうが抑えてぐっと我慢しないと、悲劇の連鎖は終わらないと思ったり。


繰り返される(百年恋歌)


映画「百年恋歌(原題: 最好的時光)予告編goo映画 による紹介)」を観た。「悲情城市」の台湾の候考賢(ホウ・シャオシェン)の作品。
淡々とした語り口は相変わらず。「百年(繰り返される)恋(の)歌」。
銀座(他は静岡・福岡)では今週の金曜日まで。しかも夕方六時半からの回だけで、終わるのは九時前。台湾の夜をかいま見て、銀座の街に出る。


懐古趣味って難しいよね(佐賀のがばいばあちゃん)(胡同(フートン)のひまわり)

映画「佐賀のがばいばあちゃん予告編)」を観た。佐賀のおばあちゃんの元に預けられた少年の数年間の成長の物語。
ALWAYS 三丁目の夕日」と同じく、現代人が懐古した「昭和三十年代臭」がプンプンする映画。貧乏だけど例によって人々は皆あたたかくて…という感じ。
胡同(フートン)のひまわり予告編)」は、日本の昭和三十年代のような古い町並みが残る北京の路地「胡同(フートン)」で暮らす、一つの不器用な父子の物語。
こちらも、やもすると前述の「佐賀のがばいばあちゃん」のように「んな…」「ウソっぽい」話になる危険をはらんだ世界なのだが「胡同(フートン)のひまわり」がウソっぽくない映画になっていて、それによる深い感銘を観る側に与えているのは、負の部分まで含めてその世界を直視しているからに他ならないと思う。
「胡同(フートン)のひまわり」では、地震でそのボロい家々は被害を受けて長い避難所暮らしを余儀なくされるし、うるさいオバサンはいるし、他人との距離が近いからこそ他人のウラの部分まで見えてしまう。
「佐賀のがばいばあちゃん」では、クサくて、汚かった筈の「昭和三十年代」が、まるでテーマパークのように美化されて、私たちが頭の中で懐古する(「懐かしい」という感情は必ずしも本人がそこに居合わせる事によって発生する感情では無いようだ。)正しい「昭和三十年代」だけが提示される。
「胡同(フートン)のひまわり」の母親は、この古い胡同(フートン)を抜け出して新しいアパートに移りたくて仕方ない。しかし父親はこの土地に愛着を感じ頑強に居続ける事を望む。遂に両親は偽装離婚して、父親はここに一人で居続ける。そして自分を裏切って離れていった(という事ではないと母親は自分では思っているのだが)母親に対してとった破滅的な行動… そして救われる事のないまま終幕。


「The Sun」(太陽)


映画「太陽(アレクサンドル・ソクーロフ)(予告編)」を観た。イッセー尾形が昭和天皇を演じる映画で、海外の映画祭では絶賛されたものの、内容がヤバくて日本で公開されるのかと言われた映画。
ソクーロフ作品は難解だ。と言われるのも、確かにそうかもしれない。外国の観客は日本の歴史、その天皇の戦前・戦後の立場。それらを予備知識として知っていないとついていけないのだから。
しかし数年前、この作品とシリーズを同じくする、「モレク神」を観たのだが、美しい幻の様な映像の中で予備知識は意味を無くしていたような気がする。予備知識があればあったでまた違うのであろうが。
そういう意味で、否応無くこの映画に対する予備知識を埋め込まれている、いやそれ以上の感情も人によっては持ってしまっている日本人は不幸かもしれない。
劇中、普通の人々は天皇が連合国司令官に会いに行くとき以外出て来ず、話の殆どは天皇の邸宅内だけで進行している。これは、この映画を社会的な次元に引きずりおろさない事に貢献している。
日本で唯一(ここが始めても何もなかった{右翼の街宣車が突っ込んで来るとか}ので、他でも上映されはじめたが。)上映されたここ銀座シネパトスは、今回初めて来たのだけど不思議な映画館で、三原橋(地下鉄の東銀座駅)の通りの地下にあって、時々上を走る車の音がする。静かなシーンでこれが鳴り響くと興ざめではある。入り口は通りから少し入った所にちょこんとあって、見逃されないように入り口に入るところに看板が立っている。
帰りに近くのニコンサロンに行ったら、日芸に居た韓国から来た留学生の高恩晶さんが写真展をやっていた。太ったと言われてやせ気味の僕としては嬉しいけど、この間も大学の友達と呑んで言われていて、複雑な気分。


「天使」(ベルリン・天使の詩(うた))

一昨日の土曜日、映画「ベルリン・天使の詩(うた)予告編)(予告編その2)(87年西ドイツ)」を観た。
日比谷シャンテ・シネ」の「BOW30映画祭」の中で、土日の二日間だけ上映されていた87年の作品。
「天使」は、主人公を始めとする中年のオッサン達。人の心の中が聞こえるが、何ら関与する事無いウロウロするだけの存在。大人達には見えないが、その存在が子供たちには見える。何の為に居るのかさえわからない。
「天使」から見る「人間の世」は暗い。希望も無く、今日の糧を得る為に生きている人々、それと重なるように、というかその根底にある素地として空爆に晒されたベルリンの街の映像が時折織り込まれる。
結局、主人公の「天使」は人間界に降り立ち、一人のオッサンとして生きていく事を選ぶ。
一緒に観た亀有(かめあり)の友人と、日比谷から銀座を抜けて勝鬨橋(かちどきばし)を渡り、月島(つきしま)を抜けて佃島(つくだじま)に行き、隅田川を眺めて帰ってきた。佃島では盆踊りの準備をしていた。
良い映画を観た後、そぞろ歩くのは気持良い。
亀有まで行って、その友達と呑んでから僕はそのまま常磐線で帰宅。


「過酷な環境と過酷な判断」(ココシリ)

映画「ココシリ(原題 “可可西里 kekexili: mountain patrol”)(予告編)」を観た。
香港在住の日本人と、日本の中国人に、「良いよ」と言われていたので、日本でも公開されたという事で、旅から帰ってきてまだやっていたら観てみようと思っていた。(東京での公開は14日で終わるらしいけど。)
淡々と事実のみを… と言えば格好良いけれども、何か言いたくない事を隠しているような感じがする。給料さえ出ないのに、身の危険を顧みず密猟者を取り締まる組織に入る隊員の葛藤や動機、又密猟者から取り上げた毛皮を自分たちのお金にする為に売る行為、この映画の題材としてはこういう物があってしかるべきだと思うし、それに語られなければならない題材であると思うのだが、そういう事には殆ど触れられず、いやむしろ触れられたくない問題には触れないで置いて、気持ちの良い所のみを賛美する姿勢が気持ち悪い。
とは言いながら、この事以外は良い映画だと思う(何を今更という感が無きにしもあらずだが)。過酷な環境と過酷な判断をいとも簡単に下していく隊長。
映画を見終わったら雨が更に酷くなっていたので、銀座をぶらぶらするのはやめて、有楽町の高架下の回転寿司で昼御飯を食べて、近くのフジフォトサロンに行って帰ってきた。椎名誠氏の写真展をやっていて、本人がいらっしゃった。ジーンズを履いていたか、確かめるべきだったな。


「カサノバ」

昨日、映画「カサノバ」を観た。
ローマカトリックの道徳観が唯一無二の正義であり、それに反する者は全て異端でありそれだけで処罰の対象になった時代、イタリアのベネチアに現れた伝説の女たらし、遊興人、カサノバ。
絢爛豪華な時代絵巻… と言いたい所だが、豪華さも中途半端、ウソっぽい調度品に説得力は無い。内容は調子よく全てがうまくいく物語。
説得力が画面、内容とも無い映画だった。


「不覚にも感動」(雪に願うこと)

映画を「雪に願うこと」を観た。
北海道の「ばんえい競馬」を舞台とした映画というのは知っていたけど、「ばんえい競馬」の泥臭さ、というか泥水と混じった雪(からっとした)臭さとでも言うのか、中央の競馬のように芝生もスマートな馬もない。
砂の上を鉄のそりに騎手(というか御者だな、あれは。)を乗せて障害の、山を足の太い、背の低い農耕馬に毛の生えたようなのがハーハー言いながらノロノロ進んでいく。観客の(言っちゃ悪いが汚い)おっちゃん達もノロノロに併せて観客席を移動しながら「行け〜!」とか「バカ〜!」とか言いながら移動する。そういう物が映画全体に流れていて、不覚にも感動してしまった。
生まれた田舎で、たまに厩舎の共同浴場で「東京に出て歌舞伎町でホストになる!」と冗談とも夢ともつかない事を叫びつつ、自分の範囲で生きていく、というより毎日をこなしていく人間の姿が、鮮烈に見える。僕にも、東京で事業に失敗して帰ってきた弟にも。