賈樟柯(ジャ・ジャンクー)の「長江哀歌」

東京駅の前の、りそな銀行にNHK浦和でバイトしていた時分に埼玉銀行と協和銀行が合併してできたあさひ銀行に作った口座を解約に行って(十年くらい残高264円だった)、日比谷に出て
りそな銀行は銀座通りの延長の道に面してるから、銀座まで歩いて四丁目の交差点を右に折れててくてく行き、有楽町を過ぎると日比谷に行く。意味の無い道案内。)
、東北への旅に出る前から観たかった、賈樟柯(ジャ・ジャンクー)監督の「長江哀歌(エレジー)goo映画による紹介)(予告編)」を観た。
段々と水の底に沈みつつある町と、去って行く心を取り戻したい人間と…
こういうテーマの折り重ね方(求めるのだけど去っていく物・人。)がうまい。耳をすませていると、それが心に染み込んでくる。


松戸をとぼとぼ

亀有駅南口のはっぴを着た「こち亀」両さんの銅像
昨日、映画「怪談予告編)」を観た。
言わずと知れた(のは落語ファンだけかもしれないけど)三遊亭円朝作の怪談「眞景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)」を映画化した作品。
映画というのはそういうものなのだろうけど、どうしても女にだらしない新吉と、それに一途な女達の物語にしか見えてこない。落語の「眞景累ヶ淵」って、人間同士の思惑、情念のドロドロ、因果応報… を描いていて面白かったと思うのだけど、話芸としての「眞景累ヶ淵」を映画にしてしまうと、やけに生々しい物語になってしまっていけない。でもこれを見て、落語や講談の「眞景累ヶ淵」を聴いてみようと思う人が増えればそれはそれで良い事なんだけどね。でもやっぱり一龍斎貞水さんの声って怖いよ〜。
それと、映画を見て改めて分かったのだけど、話芸というのは時間の流れを自由に扱えるという事。映画だと時間を飛び越えて話を進めると、うそっぽくなってしまう。
亀有の駅から少し歩いた「アリオ」(以前から駅前にあるのは「リリオ」。ややこしい。)というショッピングセンターの中にある映画館で見た後は、昼食を済ませて二つ隣の松戸へ。今日はGR Digitalというコンパクトデジカメを買おうと思って。
ところが地図を忘れて、頭の記憶を頼りにその「価格.com」で見たへんぴな所にあるカメラ屋へとぼとぼ。
松戸というと、常磐線沿線一治安の悪い所で、無機質な住宅街の町というイメージしか無かったのだけど、なかなか情緒あふれるトコじゃないですか。もっともこっち側の江戸川の方は、川を渡れば葛飾柴又なのだから、まあそうか。
カメラ屋の方は、駅から歩いて四十分ぐらい。江戸川の側にありました。ハナから客商売など考えていないみたいで(通信販売が主らしい)、店はインターホンを押さないと開けてくれないし。でも僕は通信販売みたいなので物を買うのは抵抗のある人間だし、買ったらすぐに手に入らないとイヤなので、この通信販売のついでに小売り商売もやっているようなこの店、また利用するかも。



向こうは常磐線の江戸川の鉄橋。


映画「選挙」を観た

渋谷のシアター・イメージフォーラム
映画「選挙予告編)」を観た。
05年の川崎市議会議員の補欠選挙の自民党候補に出ないかと言われ(一応公募という形だが)、切手コイン商をきままに営む山さん(40)が、自民党の川崎市議会議員候補になっちゃった。
その40歳の新人落下傘候補の選挙戦を淡々とカメラは追い続ける。
毎年選挙が来ると、昼寝をしていても仕事をしていても、「○○党の××でございます!」という選挙カー(その「業界」では「戦車」というらしい)の大きな声に「うるさいなー」と思う、あの日本人にはおなじみの「選挙」である。
古くからのドブ板選挙で、彼は朝と晩は駅頭に立って仕事行き帰りのお父さんに声をかけ、昼は選挙カーに乗って名前を連呼し、休日は地元の運動会に行って挨拶をし、先輩議員からもらった後援会名簿に片っ端から電話をし、何とか地元の人の支持を集めようとする。
途中、自民党の後援会のおばちゃんが「公明党と連立を組んでから名簿が回って、創価学会の人から『新聞とってくれ』」と電話が来る様になった。」とぼやいていたり、日本の選挙の色々を映し出していて面白い。
見終わって外に出たら、前の246(ニーヨンロク)を今度の参院戦の選挙カーが通って行った。政策なんか脇に置いといて名前を叫ぶ選挙も結構大変みたいだし、今後は多少温かい目で見てあげようかな。
東京で唯一やっている渋谷のシアター・イメージフォーラム、宮益坂を上がって246を少し行って入った分かり辛いミニシアター。


日曜日

こないだ(映画の感想を写真日記に書かなくなってからいつ何を観たんだか分からなくなってきた)日曜日の朝一番で映画館に行ったら結構空いていたので、今日も柏の駅の映画館に行ってきて、チャン・ツィイーの出てる「女帝[エンペラー]」を観てきた。
なかなか見応えのある作品ですよ。中国の映画というと貧乏くさいのばかりだった反動か、何か最近多いね、こういうワイヤーアクションで剣振り回すの。「アメリカには負けられない、こっちには歴史があるもん。」という事か?
中国人の漢字の名前が全部片仮名で出てくるので覚えられない。これも最近の流れなのだろうか、その内三国志の登場人物も全て片仮名になるのだろうか。
十時二十分の初回は案の定空いていた。それとも作品が余り受け入れられてなかっただけ?終わって出てみると外は豪雨。そのままビルの中で御飯を食べてから、駅前のビックカメラを冷やかして帰宅。常磐線は遅れてるし、道路が冠水して車が水没してるし、凄い雨でした、のでしょう。


「それぞれ楽しい」(プラダを着た悪魔)(007 カジノ・ロワイヤル)

一昨日、新文芸座(紹介)にて「プラダを着た悪魔予告編goo映画 による紹介)」と「007 カジノ・ロワイヤル予告編goo映画 による紹介)」を観た。
「プラダを着た悪魔」
ゆくゆくは硬派なジャーナリストになる為に、いわば腰掛け的に就職してみたのは一流ファッション誌の編集長アシスタント。ところがこの編集長のおばさんがファッション界のカリスマ的存在で、アシスタントを奴隷の様にこき使う「プラダを着た悪魔」。
だがアシスタントに就職した主人公の女性アンディは、野暮ったい服装を捨て野暮ったい彼氏も友人も捨て、徐々にキラキラしたファッションの世界にのめり込んでいく。
ニューヨークの一流ファッション誌の編集部に就職した主人公がファッションに目覚め、中身も外見も磨いて、ドレスを着て「そういう」方々の集うパーティに出て、憧れだった一流作家のシブイおじさまにナンパされて… 女の子が好きそうな世界だ。
僕はそういう世界を否定するつもりはなくて、その中で実際働いている人はきらびやかな世界とは裏腹に精神的にも肉体的にも大変なのだろう、本当に尊敬するけれども、何か、これが憧れる世界の現実と言いつつ、本当の辛さは描いていない様な所が鼻につく部分ではある。内容的には働く女性を応援するテレビドラマ、という感じ。テレビドラマじゃないからニューヨークが舞台だし、それが良いのかもね。
尤も、本当の内実を鋭くえぐっちゃったりしたら、明日からまたがんばって働こうという気力も失せちゃうだろうし、この程度が心地良いのだろうけど。
「007 カジノ・ロワイヤル」
「007」シリーズは結構好きで、映画館でもよく観ているし(この映画は映画館で、飲み込まれる様な映像と飲み込まれる様な音響で楽しまなければ意味がないと思う。)、サウンドトラックのCDなんかも買ったりしているのだが、期待に違わず今回も楽しませて頂きました。ただ、ポーカーのルールは勉強していくべきだった… カジノ・ロワイヤルというぐらいで、豪華なカジノで国家の金とテロリストの資金をかけた熱い戦いが繰り広げられるのだけど、ドキドキハラハラの展開でゲームが進んでいってもルールを知らないと、出されたカードを見て、顔が歪むボンドを見たり、悲惨な音楽を聴いたりしても、何も分からない。麻雀マンガを見ている様な気分(麻雀も分からない)。
楽しい所は相変わらず満載(もはや「水戸黄門のお銀の入浴シーン並」に定番?の水着の美女が夕陽を浴びて水と戯れるシーンとか、道路に縛られた美女が放置されて、ひかれそうになるとか。)で、今から次の「オースティン・パワーズ」(007シリーズのパロディ映画)が楽しみ。


「そうですか」(ブラッド・ダイヤモンド)

一昨日、映画「ブラッド・ダイヤモンド予告編goo映画 による紹介)」を観た。
アフリカの紛争地域で武器の資金源になっている、不法取引されたダイヤモンド。
アフリカ西部のシエラレオネでそれに絡む密売人のアーチャー(レオナルド・ディカプリオ)は、息子をゲリラに誘拐された現地人ソロモンを利用して、彼が隠した大粒のピンクダイヤを探させようとする、しかし一緒に行動する内、その関係は友情へと変わり…
まあこの通り内容はクサいし、(アフリカだからそれっぽいという事を期待しているわけではなく)その場の空気の様な物は感じられないし、何だかなあ、という感じ。こないだ観た、同じ内戦の中のアフリカを舞台にした「ラストキング・オブ・スコットランド」に比べて何とつまらない事。最後まで「遠くのアフリカで起こっている事」という空気が漂っている。映像に緊迫感が無い。
こちらの方がお客は入っていたけどね、出ているのがディカプリオだからかな?


「己を知る」(ラストキング・オブ・スコットランド)

京成ローザの客席
映画「ラストキング・オブ・スコットランドYahoo!ムービーによる紹介予告編)」を観た。
仕事も一段落して、「観ようと思っていた『ラストキング・オブ・スコットランド』でも観るか…」と思って今やってるトコ調べてみたら、いつの間にやら首都圏では京成の千葉中央駅側のココ「京成ローザ」だけになってた。それも17:40と20:05の二回だけだし。公開はそんなに前じゃないし、それほど反応が良くなかったのだろうか。でもアカデミー賞だしなあ。写真は上映十分前。
1971年、ウガンダの革命を成し遂げた民族の英雄、アミン。
イギリスはスコットランドで医師の家庭に生まれ、親の期待通り医師の免許を取得した青年。
ある日突然(突然突飛な行動をとりたくなる事は自分にもよくあるし、よく分かる。)青年は、目をつむり地球儀を回して指さしたウガンダに行き、医師として地元住民の為に働く。
ある日、革命を成し遂げた将軍アミンが村に来て、些細な怪我を治療したのが縁で、大統領の専属医にならないかと誘われる。一旦は断ろうとするものの、アミンの人間的魅力・カリスマ性、そして好奇心・興味によってそれを受け入れ大統領の専属医となる。
しかし権力を握ったアミンは、段々と人間不信に陥り、側近の粛正、虐殺へと、独裁者への道を、順当に、登って行く。
けれども独裁者の信頼を一心に受けてしまった青年は、もはや独裁者から離れる事はできなくなっていた。
独裁者、アミン役の俳優がうまく、独裁者のカリスマ性を良く表していて面白い。
自分の守備範囲というか、己をしっかり知って、しっかり自分の所に足を付けて置かないと、フラフラして気が着いたら沼に足を突っ込んで、抜けないなんて事になりかねないし、何も身に付かずともフラフラして戻って来てみたら自分が立っていた所は地面がぐずぐずになっていたり、そんな事を思ったり。
あ、映画は面白かったです。


「逢魔が刻」(叫{さけび})

映画「叫(さけび)goo映画による紹介予告編)」を観た。
黒沢清監督の、役所広司主演のホラー。
何か全編通して、分かったようで分からない。これは別に良くない作品とか言うのでなくて、不条理の世界という様な事。
何でこいつが祟られなきゃならないんだ。たまたま前を通りがかっただけじゃないか、大体他にも人はいたじゃないか。
こういう訳の分からない、不条理な、割り切れない世界が、そういう物、というか発想が無いアメリカで受けたという話を聞いたことがあるけれども、訳が分からないだけに怖い。恐ろしい。
後、前編通して夕方。「逢魔が刻(おうまがとき)」とでも言う様な時間で、部屋には西日が差し込んでコントラストの高い、けだるいような空間を作り出している。
江戸時代から、怪談と言えばこの時間に何かが起こるもんだが、その伝統はここにも受け継がれて居るらしい。狂気が写り込むような、時間なんだろうな。学生の時、「歌舞伎研究」という授業をとっていて、一年間かけて「東海道四谷怪談」を読ませられたけど、何か思い出してしまった。
コニカミノルタプラザで、「山方伸写真展『over the river』」を観る。前のプレミオでの写真展その前観た時はこう思っていた)の時からこの人の写真が好きだった。期待に違わず良い写真。始めて御本人にお会いして、色々話す。同じ様な事を考えていて面白かった。
故郷を出て東京で一人暮らし。居酒屋でバイトしながら、お金が貯まると日本各地に旅して写真を撮るそうだ。格好良いなあ。のほほんと生きてる自分としては多少は見習わないとと思いますよ。


「男性というだけで動機がある」(それでもボクはやってない)

柏の高島屋の一階にある映画館で、映画「それでもボクはやってない予告編goo映画による紹介)」を観た。
「シコふんじゃった」や「Shall we dance?」の周防正行監督の最新作。痴漢として女子中学生に捕まった(「痴漢です」と言われて腕を捕まれ、説明しようと駅事務室に行っただけで現行犯逮捕が成立してしまうらしい。)青年が、弁護士や家族、友人の協力で冤罪を晴らそうとする物語。
殆どのシーンが法廷や留置所で進行していって、はっきり言って観て楽しい映画では無い。しかしリアルな、今そこにある話。何も救いは無いし、じゃあ痴漢冤罪を避ける為にはどうしたら良いかと言ったら、何も提示されない。女子学生の側に寄らないとか、満員電車でモゾモゾしないとか、それしか無いらしい。周りの人も、駅員も、警察も検察も、結局は裁判所も、あてにはならないのだから。何より痴漢という犯罪には、残念ながら(女性弁護士がそう言う様に)「男性というだけで動機がある」のだから…
映画が終わったのが三時半だったので、バスで北柏のカフェ「Calla(カラー)」に行き、お茶を飲む。
雛人形が飾ってあった。
北柏の喫茶店「Calla(カラー)」
お茶を飲んで新聞を読んで、家まで歩き出す。
手賀沼湖畔の農家の庭の梅の花
家の庭の梅はまだ咲いていないのになあ。


「情報には敏感に」(グアンタナモ、僕達が見た真実)

昨日撮影の写真の後処理(要はRAW現像)は後で良いという事で、映画「グアンタナモ、僕達が見た真実予告編goo映画による紹介)」を観た。
イギリス国籍のパキスタン人の男達が、結婚式に出る為に故郷パキスタンに帰り、その時アフガニスタンの状況を見に行こうと国境を越えたら、アフガニスタンでアルカイダと一緒に捕まってしまい、英語を話せるという事で、テロリストとして捕らえられ、キューバのグアンタナモ基地に送られて拷問をされるという話。
確かに理不尽な事かもしれないけれど、彼らはイギリスにいて、情報から隔離されていたわけではないし、アフガニスタンで起こっている事を考えれば、不用意な行動だったのかもな、等と思う。グアンタナモ基地での拷問がそれほど過酷に思えないのも、アフガニスタンでの彼等の状況を考えると、爆撃やわけのわからない襲撃で殺される心配もないという意味では、基地に収容されて理不尽な拷問を受ける方が、まだ良いのかとも思う。
とはいえ、これは歴史の中の「拷問」ではなく、今現在アメリカの行っている、進行している人道的な「拷問」である事は受け止めなければならないだろう。
それならば尚の事、自分の意思とは関係なく拷問をすることを強制されている現場のアメリカ軍兵士の精神状態の方が心配になってしまったりするのは、現在自分が(突然いわれもなく拘束されて拷問されるようなことのない)日本に住んでいるからだろうか。いや、情報に敏感で無ければ、自分のとった行動が思いもかけない不幸を自分で呼び寄せてしまう、そんな気がする。